「漂流教室」「おろち」「へび少女」「赤んぼ少女」「悪夢」などのホラー漫画を次々と発表し、「恐怖漫画」という新しいジャンルを確立した、楳図かずお(うめず かずお)さんですが、
小学5年生の時、手塚治虫さんの漫画「新宝島」を読んで感激して漫画家になる決意をし、中学生の時には、様々な雑誌に自作の漫画を投稿し始めるも、なかなか芽が出ず、高校卒業後は、貸本屋向けに漫画を描く生活を送っていたといいます。
今回は、そんな楳図かずおさんの、生い立ち(幼少期から高校卒業まで)をご紹介します。
楳図かずおのプロフィール
楳図かずおさんは、1936年9月3日生まれ、
(戸籍上は9月25日)
和歌山県伊都郡高野町の出身、
(奈良県五條市育ち)
本名は、「楳図一雄」(読み方同じ)、
血液型はO型、
学歴は、
五條国民学校
⇒五條市立五條中学校
⇒奈良県立五條高校卒業
趣味は、音楽観賞、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ピアノ、
だそうです。
楳図かずおは和歌山県伊都郡高野町で誕生
楳図かずおさんは、お父さんの公雄さんとお母さんの市恵さんのもと、2人兄弟の長男として、和歌山県伊都郡高野町で誕生するのですが、
お母さんの実家は奈良県野迫川村にあり、半日歩かないと着かないような、大変な山奥だったことから、不便すぎたため、お母さんは実家に帰らず、高野町に家を借り、そこで楳図かずおさんを出産したのだそうです。
楳図かずおは幼少期に父親から伝説や民話を聞かされて育っていた
そんな楳図かずおさんは、幼い頃は、小学校の教師をしていたお父さんの仕事の都合で、奈良県の山間部の人里離れた村を転々としたそうで、
3歳から6歳まで、奈良県宇陀郡曽爾村で過ごすと、歴史に詳しいお父さんが、「お亀池伝説」「源頼光の鬼退治」「国造り神話」などの伝説や民話を語り聞かせてくれたそうです。
楳図かずおは幼少期に母親からは不思議で怖い話を聞かされて育っていた
一方、お母さんも話を聞かせてくれたそうですが、お父さんが「昔々・・・」と語るのに対し、
お母さんは、
半人半牛の姿で、口にした予言は必ず的中するという「くだん」という妖怪が和歌山県のどこかの別荘にいる
ウワバミに出くわしたら頭を攻撃しても勝てない。尻尾をちょん切るんだ
後ろからオオカミがついてきたら、転んじゃいけないよ
など、
まるで、ついこの間、近所の山で起きた出来事のように話したそうで、幼い楳図かずおさんは怖かったそうです。
また、お母さんは、(あまり冗談を言うタイプではなかったそうですが)若い頃は不思議な力があったと語っていたほか、実家に帰る山道を歩いている時、突然、池を指して、
お前は赤ん坊の時、ここに浮かんでいたんだ
と、言ったこともあったといいます。
(楳図かずおさんは、後に、漫画家になってから、お母さんの話に影響を受け、「狐つき少女」「ヘビおばさん」などの作品を執筆しています)
楳図かずおは小学5年生で手塚治虫の「新宝島」に影響を受けて漫画家になる決意をしていた
そんな楳図かずおさんは、幼い頃から絵を描くことが好きで、1946年、小学4年生の頃に漫画を書き始めると、1947年、小学5年生の時には、手塚治虫さんの漫画「新宝島」を読んで大ファンになり、漫画家になる決意をしたそうで、中学で漫画家デビューしたいと思うようになったそうです。
そこで、楳図かずおさんは、手塚治虫さんの絵を模倣(もほう)して描くようになったそうですが、手塚治虫さんの絵のタッチから離れられなくなってしまったそうで、これではいけないと思ったそうです。
そんな中、たまたま、手塚治虫さんの漫画を貸していた同級生から、「借りた覚えはない」と言って返してもらえなかったそうで、
よし、それなら手塚離れしよう!
と、これをきっかけに、手塚調を廃し、自分の描き方を模索するようになったのだそうです。
楳図かずおは中学2年生の時にサークル仲間との共作で「森の兄妹」を描き上げていた
そして、中学に進学した楳図かずおさんは、中学2年生の時には、神戸の「改漫クラブ」というサークルに入り、肉筆回覧誌を通じて各地の漫画少年・少女と交流するようになったそうで、
そのサークル仲間の水谷武子さんと共に「森の兄妹」(グリム童話の「ヘンゼルとグレーテル」の漫画化)を描き上げたのだそうです。
「森の兄妹」
一方、「漫画少年」にも、度々、自作の漫画を投稿していたそうですが、なかなか採用されなかったそうで、ようやく、「往復マンガ」が掲載されたそうですが、これを最後に、「漫画少年」への投稿をやめ、「譚海」や「漫画と読物」などに作品を発表するようになったのだそうです。
(「往復マンガ」とは、4コマ漫画を上から読み、一番下まで来ると、今度は下から上に読むスタイルの漫画のことを言うそうです)
「漫画少年」に掲載された楳図かずおさんの往復マンガ
楳図かずおは高校3年生の時「森の兄妹」が出版されるも続かなかった
その後、楳図かずおさんは、中学卒業後、奈良県立五條高校に進学したそうですが、中学の時に描いた水谷武子さんとの共作「森の兄妹」と、高校2年生の時に1人で描いた「別世界」を、クラブの会長の西岡務さんが出版社に売り込んでくれたそうで、
高校3年生の時、修学旅行(東京)から帰ってきた同級生から
君の漫画が熱海の駅の売店で売られていたよ
と、言われ、
知らぬ間に「森の兄妹」が出版されていたことを知り、驚いたそうですが、
(楳図かずおさんは、集団生活が嫌いで、乗り物酔いもすることから、修学旅行は行かなかったのだそうです)
出版社からは、
あなたの絵柄は商業ベースじゃありません
と言われ、後が続かなかったのだそうです。
楳図かずおは高校卒業後は貸本屋向けに漫画を描くようになっていた
実は、この頃、漫画界は手塚治虫さん一色で、普通の漫画ではなかなか芽が出なかったそうで、楳図かずおさんは、いっそ、怖い漫画を描いてやろうとも思ったそうですが、当時はまだ理解されず、こちらも、うまくいかなかったそうです。
そんな中、高校3年生の時には、漫画を描くことをやめようかと思ったこともあったそうですが、
それでも、一番下から這い上がっていこうと思い、1955年、高校卒業後は、大阪の貸本屋向けに漫画を描き始めたのだそうです。
(楳図かずおさんは、両親の意向で奈良学芸大学(現・奈良教育大学)を受験したそうですが、不合格だったため、大学には進学しなかったのだそうです)
ちなみに、楳図かずおさんは、この頃のことを、
僕、この時に「人生、あたふた焦ってもしょうがない。運にまかせてやるしかない」って、お坊さんみたいな心境になっちゃった。さすが、高野山生まれでしょ(笑)。
他人が先にデビューしても羨(うらや)ましがらない、慌てない。チャンスが来た時にすぐに出ていけるよう準備だけはしておこう、って。
と、語っています。
「【画像】楳図かずおの若い頃の漫画は?現在までの経歴を時系列でまとめ!」に続く
高校卒業後は、大阪の貸本業者に「少年探偵岬一郎シリーズ」などの作品を提供するかたわら、少女漫画デビューも果たすと、順調に漫画家としてのキャリアを積み、1961年、25歳の時には、雑誌「虹」に、蛇である継母を描いた物語「口 …